この10年、さまざまな師とであった、ヴォイストレーナーさんも一回きりが多かったが6.7人にお会いした。ふしぎなのはほんとうに惚れ惚れする、ずっと聴いていたいお声の方がたったひとりだったこと......。けれどもどなたもなにがしかの贈り物をくださった。
結局 一生かけて師事するのはビウエラの水戸先生しかないように思う。先生は3分でわたしを泣かせる.....いや3分かからないかもしれない。天上の響きを奏でることのできるまごうかたなき名手なのである。おひとがらも味わい深い、そして余計なことは一切言わない。わたしにとって師とは圧倒的な......神とつながるなにかを持っている方だ。
どの師にも目をかけていただいたが、ほとんどはわたしの方から去ってしまった。不幸な行き違いもあったが、言うこととじっさいにやることが違うとついてゆけなくなる。敬愛したぶん、勝手に裏切られたと思ってしまうこともよくあることだ。先日の公演にはほんとうに参った、こんなものを求めていたのかと思った。しかし、ひるがえって自分はどうだろう。日頃書いていること、語っていることと、行動に違いがありはしないだろうかと考えると少々ウソ寒くなるのだが、こればかりは自分ではわからない。
今日は座のワークショップの発表会に行くことにした。ひさしぶりに壌さんともお会いできるだろうか、楽しみである。商業演劇とワークショップの内容とはかならずしも整合しないと今は理解できるのだが、まだ青かったあの頃はわからなかった。今、壌さんのほんとうのお力がわかるように思う。
魂の底から感動する...というのはそうあることではない。いくつかの条件、天候とかその日の気分、出演者の力量、バランス、コンディション、そうしたものがうまく渾然となって魂があらわれる稀有の一瞬が顕現する。壌さんが演出したスタジオ公園「動物園物語」が最たるものだった。わたしはまさに崩折れた。感動させてくれた方は魂に刻印を残してゆく。ある意味で神である。わたしにはあとふたりそのような方がいて、時折夜更けなどに囁きかけてくる。すると思わずその消息をさがしてしまう。これって自己愛なのだろうか。洗われて清らかだったその時の自分への拘泥なのか、それとも思慕なのか。
ところで、そういう方に手ひどく傷つけられたとしたら.....どうなるか。憎悪とか嫌悪に替われば或いはすっかり忘却できれば面倒はないのだが、刻印されたものはほかの誰がなんといおうと、そうそう消えはしない。そこでとるべき道は、ひたすら忘れられる時を待つ、もうひとつは敢えてその実体を知ることである。これが実は一番手っ取り早い。ミイラトリになる...もしくはうつくしい思い出がすべて消えうせるというリスクも含んでいるのだけれど。
さて、そろそろ行かなくては.....
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